<ゴンゾーさんのレフェリー・コラム>  
レフェリーはゲームに不可欠な存在でありながら、彼らの言い分はほとんど表に出ません。レフェリーの現状、レフェリーの限界、そしてレフェリーの夢…。プロのレフェリーを目指す“ゴンゾーさん”が飾らない気持ちをつづります。
〈3〉『我が師匠 その名はミスター・ヒュウ』その1 (2004.04.20)

渡米してから8ヶ月間、英語との闘いだった。とにかく何も話せなかったし聞けなかった。本当に言葉は大丈夫なのか?という不安と、レフがいつになったら出来るのか?という焦る気持ちでいっぱいの日々を送っていた。

待っていては来るものも来ない、全米に手紙・メールを送る
とにかく待っていては来るものも来ないし、積極的に動いて自分自身の力で夢への扉を開けるしかないと考えた。そこでやったのが、インターネットを使い全米に手紙・メールを送る事だった。
もちろん英語の手紙だったが、もちろんまだしっかりした内容は書けなかった。ただ“私は日本からレフェリーをする為に来た、誰よりもレフェリーが大好きだ”とだけ書いて送った。
そんなただ何もない1人の日本人を誰が相手にしてくれるかとも思っていたが、何通かの返事があった。
なかでも、とても親切だったのがレフェリーマガジンという本を出版しているNASO(全米スポーツオフィシャル)という組織だった。 私宛に大きな包みを送ってきてくれ、その中にはバスケットのレフェリーに関すること、レフェリー何人かの住所、電話番号を記載した紙が入っていた。

その名前の中に、1人だけカリフォルニア在住の人がいた。後日、その人の家はそんなに私の住んでいた所から遠くないということがわかり、車に乗って行ってみた。
もちろん、電話もせず待ち合わせの予約もせず、押し掛けで行ってしまった。
車に乗って25分ほど行ったところに彼の家はあった。しかし、同じ番地に3軒並んでいてどの家かまでは分からず困っていたら、ちょうど家のガレージの扉を開けて新聞を読んでいた中年のおじさんがいたので、「エクスキューズミー」と言い、紙を見せてこのヒュウ・ホリンズという方を知っていますか?と聞いた。

初対面にも関わらず夢中で必死になって「あなたの助けが必要なんです」
そうしたら彼は、「私がヒュウホリンズだ。お前は誰だい?」と言ってきた。そう、ヒュウ・ホリンズを探しに来たのに、その本人にヒュウ・ホリンズを知っていますか?と聞いてしまったのだ。
「お前は誰だい?」と聞かれた時、「私はNBAのレフになる事を夢見て日本から来ました。あなたの助けが必要なんです」と何度も言った。もうその時は、初対面にも関わらず夢中で必死になって彼に頼んだ。
しかし、彼は「それは無理だ。ちがう所をあたってくれ」と言った。私が持っていた名前のリストを見て、「この男に頼め」と言った。その場所はアトランタ、東海岸だった。カリフォルニアの正反対、東海岸は遠すぎた。
だから、私はしつこくしつこく食らいついた。あなたじゃなきゃ駄目なんですと何度も言った。彼に「本当に日本から来たのか?信じられない」とも言われ、ずっとその眼差しだった。
すると、あまりのしつこさに参ったのか、「分かった、電話するから電話番号を教えろ」と言われ、彼に自分の電話番号を渡した。

本当にしたいものの始まりが目の前にある、必ず前に進んでやると思った
しかし、電話番号を渡してもいっこうに電話が来なかった。なので待ちきれず約2週間、毎日電話した。言う内容は紙に書き、とにかく電話した。
彼が電話に出ない日も多かったが、そういう日は必ず留守電を残した。どんなに嫌がられても、しつこくしつこくした。
本当にしたいものの始まりが目の前にある、必ず前に進んでやると思った。人を動かすもの、それは熱い情熱だと信じていた。

そんなある日、彼から電話が来た。
(次回分は来週掲載です!)
大河原 則人(愛称:ゴンゾー)
1979年生まれ。中学よりバスケットを始め、日体大バスケット部にてレフェリーを始める。NBAのプロのレフェリーを目指し、大学4年時に卒業を待たず渡米。審判への熱意でカレッジキャンプや日系リーグで笛を吹くチャンスをつかみ、今年はABAのスクリメージでも経験を積んでいる。

バックナンバー

〈1〉『ひねくれもののレフ、彼がレフを目指すまで 』
(2004.02.20) ・・・こちら
〈2〉『パシフィックオーシャンを渡った日』 (2004.02.06) ・・・こちら

<構成 北村美夏>

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