<ゴンゾーさんのレフェリー・コラム>  
レフェリーはゲームに不可欠な存在でありながら、彼らの言い分はほとんど表に出ません。レフェリーの現状、レフェリーの限界、そしてレフェリーの夢…。プロのレフェリーを目指す“ゴンゾーさん”が飾らない気持ちをつづります。
〈5〉『我が師匠 その名はミスター・ヒュウ』その3(2004.05.12)

 彼の息子、マイケルの練習中のスクーリメイジ(紅白戦)をレフするようになってから、ヒュウと良く話すようになった。最初の2週間くらいは彼のことを“ただ、その辺でレフをやっている人”ぐらいにしか思っていなかったが、だんだん一緒にいる時間が増えるにあたって彼が凄い人だというのに気付いてきた。

質問に対して、“俺は現役のNBAのレフェリーだ”と言ってきた
 会った時から腕にはNBAのロゴ入りの腕時計、靴下もNBAのロゴ入り、そして指には優勝リングのようなものをしていた。その時はただのNBA好きのおじさんくらいにしか思っていなかった。しかし、ある彼の答えに凄く興奮した。

ヒュウは今でもレフの活動を行ってるのですか?という質問に対して、俺は現役のNB
Aのレフェリーだ、そう俺の職業はレフェリーだと言ってきた。その時、自分の夢である事を職業としている人が目の前にいると思い、体が震えた。

ヒュウ・ホリンズ、彼は27年間NBAのレフとして働き、数多くのファイナル、オールスターの試合をレフしてきたのだ。中でもマジック・ジョンソンのNBAデビュー戦、マイケル・ジョーダンのユタでのラストショット等のビッグゲームを吹いている。そんな彼にずっと教えられたり助けられたことはこの後も幾度となくある。彼は今でもレフとしての師匠だし、カリフォルニアにおける第2の父でもある。

このヒュウとの出会いもそうだが、ただ単に夢を叶えたいと強く願うだけで、様々な出会いが生まれた。それは、枝分かれのようになっていて必ず会わなくてはいけない人には必ず会えるようになっていた。

ヒュウとは本当に親子同然の付き合いをさせてもらった。ヒュウの家族や親戚、近所の人たちもいつも自分のことを快く迎え入れてくれた。彼らは、白人でもなければ黄色人でもない。そうアフリカンアメリカン(黒人)だった。
日本は大半が黄色人だが、カリフォルニアは人種のるつぼというくらい様々な人種がいた。黄色人の自分を受け入れてくれて、本当にヒュウには感謝をしている。

そんなヒュウとの出会いがあり、夏の時期になると様々な場所でレフのキャンプが行われた。そして、初めての夏に私もパック10のキャンプに参加することになった。

(次回分は来週掲載です!)
大河原 則人(愛称:ゴンゾー)
1979年生まれ。中学よりバスケットを始め、日体大バスケット部にてレフェリーを始める。NBAのプロのレフェリーを目指し、大学4年時に卒業を待たず渡米。審判への熱意でカレッジキャンプや日系リーグで笛を吹くチャンスをつかみ、今年はABAのスクリメージでも経験を積んでいる。

バックナンバー

〈1〉『ひねくれもののレフ、彼がレフを目指すまで 』
(2004.02.20) ・・・こちら
〈2〉『パシフィックオーシャンを渡った日』 (2004.02.06) ・・・こちら
〈3〉『我が師匠 その名はミスター・ヒュウ』 その1(2004
.04.20) ・・・こちら
〈4〉『我が師匠 その名はミスター・ヒュウ』
その2(2004
.04.27) ・・・こちら

<構成 北村美夏>

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